第一部「人を助けるとは」-2

玄侑氏:動物の世界では、自分は守られるということは集団を守ることだと、根底から認識してるなと思うことがあります。今のペンギンの例もそうなんですが、アマゾン川では群れで川を渡るアリがいます。何万匹というアリが巨大な球体の群れを作って、転がって渡ります。外側は大変ですから、内側と外側が交代しながら渡る。イワシの群れもそうです。イワシはいつ眠るんだろうと思っていましたが、群れの真ん中はちょうどバスに乗っているようなもので、寝ていてもいい。外側に出ると自主的に泳がなければならない。それも交代でやっている。そういう意味では、自分を守ることは群れを守るということになります。小さな社会ですが、社会全体のことを考えないと個人は守られないということは、動物界の方が徹底しているのではないでしょうか。

駒村氏:人間は環境を変えてしまえばいいということで、守り合う、助け合うっていう部分がすごく後退してしまっている。動物は環境を自分に都合のいいように変えられないので、自分たちで工夫しなければいけないという本能のようなものがあるのだと思います。新型コロナウイルスの問題も背景には地球温暖化の問題や乱開発の問題があるとされています。環境を変えすぎてしまった結果、我々は危機を迎えている。動物が持っているような助け合いの本能を思い出すことができるのか、忘れたままなのかというのが大きな問題になってくるのではないかなと思います。

玄侑氏:問題が起きてしまっていて、しんがりの働きが重要になっていることは分かるのですが、バケツに穴が開いていて、漏れた水をどうするかというとき、バケツの穴をふさぐのが先でしょうという問題もありますよね。こぼれ落ちる人たちを出してしまう制度。例えば小泉純一郎政権のとき、保健所が激減させられました。それが今になって新型コロナウイルスの対応で非常に困ったことになっている。石油を運ぶタンクローリーの数がやはりあの時代に激減して、東日本大震災のときにガソリンを運ぶことができなくて困ったということがありました。要は平時の効率化を進め、小さな政府でみんな民間に任せるという形をとった結果、バケツの穴が大きくなってしまって、漏れ落ちる人たちが増えてしまっているいうことがあると思います。


駒村氏: 経済学の世界では、1970年代後半から戦後の福祉国家を充実させるという路線からスリムな政府、新古典派経済学が非常に強い勢いを持ってきました。 当時の代表的な言葉として、イギリスのサッチャー首相は「社会というものは存在しない、あるのは男と女と家族だけだ」と、徹底的な個人主義を主張したわけです。 それに応じるように、先進国の多くの国で小さい政府、自己責任論が真正面に出てきました。

この結果、まさに玄侑さんのおっしゃるように、バケツの底が抜けているような状態になっている。 しんがりは社会の大事なものを守るためのある種の時間稼ぎみたいな部分なわけですね。 時間稼ぎだけで世の中を維持できないわけですから、本体自体が治ってこないとどうにもならないと思うのです。

経済学の発想だとGDPは市場で取引されるものしかカウントしないので、どれだけ格差が広がろうが、地球環境が汚染されようが、価格に反映されない限り全く無頓着な構造になります。 そして、GDP が伸びることによって、トリクルダウン、つまりトップグループが豊かになれば下のほうも豊かになるだろうという想定が出てくる。 こんな想定は経済学の中で1回も証明されたことがないけれど、そうなのだと。 あるいは格差があった方がいい、そうすると頑張ろうという気持ちが起きるのではないかという考え方もある。

地域に住んでる人は自分が好きでその地域に住んでいるんだから、人口減少や過疎が起こっても、そこに住んでいる方が得だと思ってるから住んでいるんでしょうと、こういう極端な個人主義、利己主義、経済指数にのみ反映した成長モデル。 これをずっとやってきた結果、地域に何が起きているのかをあまりにも知らないのではないか。私自身も国の政策にかかわったり、制度について議論してきましたけれども、それを見る機会はなかったわけです。 さまざまな問題が起きているということを、この本を読んで知っていただきたい。

ただ、新型コロナウイルスの展開の中で、もしかしたら流れが変わってくるのではないかというような状況もいくつか見えています。 EU 各国は互いに財政協力をする、雇用保険、失業保険を支援し合うと言っています。崩壊しかけた EUが互いの財政制約を超えて助け合おうとしています。 サッチャー首相の後輩であるジョンソン首相は、自分自身が新型コロナウイルスに感染したせいかもしれませんが、自分のために命がけで助けてくれた医療機関の人たちの活動を見て、「やはり社会はあった」というふうに言ったのです。 潮目が変わってきてるのかなと思いますけれども、玄侑さんはこのへんをどう思われますか。

玄侑氏:GDPの考え方ですと、とにかく所得が増えれば幸せになるという前提があるような気がしますが、実際にそうなのだろうか。福島第1原発事故以降の福島を見ていますと、お金がどんどん投下されるほど格差は広がってきているということがあります。しかも分断が広がっている。つながりが薄くなるのです。これがそのまま幸せじゃなくて不幸のほうに行っている。所得の多寡というのは、ある程度以上の所得があれば、幸福感にはあまり関係ない。むしろ格差や分断が広がるというところが大きな問題です。そういう意味では別の考え方を持ってこないとまずいのではないかと思います。

駒村氏:そのへんは経済学者も重要な責任を担っていると思います。これから新しい寄附講座を担当するので、21世紀生まれの学生たちと議論していきたいと思います。