第三部「環境、人を語る」

駒村氏:講座を担当して本を作っている時に、一番考えたことは、人を助けるということはどういうことなのかということです。経済学の主流派の市場経済を説明している経済モデルは還元主義的なアプローチで、一つひとつの主体があたかも合理的に行動して自分の利潤を最大化するように行動していくと、社会全体が経済という形でうまく回っていくという、物理学の手法を援用した考え方になっています。しかし、このアプローチには限界が出てきている。個々が独立して頑張っていこう、最適な行動をしようというアプローチには限界がきていて、これに代わるアプローチが東洋的な思想の中にあるのではないかと思います。このへんを玄侑さんからお話いただけますか。

玄侑氏:人間の臓器で、心臓はどこまでの心臓なのか。心臓だけで生きられるのかというと、生きられない。単独の心臓というのはありえない。単独の肝臓や腎臓もありえない。全体がないと、個はないのです。臓器同士の関係は仏教的に言うと、「布施して布施を知らず」、あるいは「布施して布施を忘れる」と同じです。心臓は全身に血流を送りますが、心臓が動けるのは腎臓がちゃんと排せつしているからだし、肺がちゃんと酸素を供給しているからです。心臓単独では生きられない。他の臓器の世話になりながら、心臓が個として動いているように見える。中には、盲腸のように役に立たないようなものもありますが、おおむね、それがなければ生きていけない、どの臓器が重要かという序列もつけられない、そういう関係は東洋的なものだと思います。

駒村氏:好きでそこに住んでるんだから、嫌だったらこっちに来ればいいじゃないか、地方がなくなったって困らないよねという発想は、今の考え方とは真逆ですね。地方があって、そこに豊かな自然環境、農業があって、文化がちゃんと育まれていくから、日本という全体が生き残り続けられることがあるんだと。ところが、そこに住んでいるのはその個人の選択の問題に過ぎないから、そこが好きで住んでいる、嫌だったらこっち来ればいいじゃないかっていうのが今の経済学のアプローチなんですね。

玄侑氏:環境というものに対する考え方が違うのだと思います。状況を抜きにした個はありえないと仏教的には思っています。この地球に住んでいるからこういう姿形もしていますが、月に行ったら、まったく別な姿になるでしょう。環境というのは個人と一体です。環境を消費する形で個が好き放題をする時代はもう終わってもらわないとたいへんなことになります。

駒村氏: 経済学のアプローチというのがある種、権力やさまざまな規制、権威から自由になる、自由を第一にして、自由な経済活動の結果、人々が豊かになるというふうに考えているわけです。 その中には格差がどうなっていこうが、その生産や消費プロセスの中で地球をどれだけ汚していこうが、それは価格の中には反映されないので、豊かさとしては反映されていかない発想なんですね。 しかしながら、自然としての地球が限界値を迎えようとしているときに、そのアプローチを切り替えていかなければいけない。

新型コロナウイルスはそういう危機を我々に教えてくれているのではないかなと思います。 地球温暖化問題で、パリ協定は世界の平均気温上昇を産業革命以前に比べて2℃より低く保つとともに、1.5℃に抑える努力をする目標を掲げましたが、 我々がどういう生活をしなければならないかというと、まさに今、新型コロナウイルスの問題を受けての経済活動レベルまで落とさないといけないということだと思います。

ものを所有して使い果たすという考え方から、未来永劫地球という環境を守り続けるという発想は市場経済学の中にはなくて、新しい部分を組み入れる必要がある。 そこに仏教の知恵が何か手がかりになるのではないかなと思っていますが、いかがでしょうか。

玄侑氏:仏教的に何が自由かと言うと、欲望に振り回されていないことです。欲望を制御できている状態が自由だと思います。欲望を肯定した上で欲望のままに環境を消費してきたというのが今までだと思いますが、環境を自己と一体のものとして考えれば、消費財ではないのですから、欲望のために犠牲にしていいものではない。いろいろな感染症は森林開発などにより人間以外の生物との距離が近くなったために出てきたものですから、大きな警鐘が鳴らされていると思いますね。

駒村氏:新型コロナウイルスが発生した原因は分からない部分があるとは思いますが、基本的には乱開発で奥地までどんどん開発して野生動物と出会う確率が増え、さまざまな感染症が地球温暖化の中で活性化してくる。こういうことを考えると、欲望の限界を知らなければならないのですが、そこがなかなか難しい。

玄侑氏:外側に向かうのが欲望ですが、知りたいという対象を我々の内側に向けるというのが仏教の基本だと思います。欲望を抑えるのではなく、内面に向かう。情報があれば豊かかというと、そうではない。かえって、混乱を招いている。情報を欲望の対象にしなくなったら、相当自由だと思います。

駒村氏:玄侑さんのお話を聞いて、私自身も反省しなければいけない部分があると思いました。新型コロナウイルスの関係で、外に出る回数が減っていて、本を読んだり、自分自身に向き合う時間も増えています。自分自身をもう一回見つめてみたいと思いました。たいへん貴重な時間をいただき、ありがとうございました。

司会:最後に、駒村さんには困難な状況にある方、そうした方を支援している方々へのメッセージをお願いします。玄侑さんには、困難な状況の中で生きていく心の持ちようのヒントをいただけますか。

駒村氏:新型コロナウイルス問題で非常に深刻な状態になってきているわけですけれども、多くの方が困っており、これからそういう方が増えるのではないかと、日本中のしんがりが総動員状態でそういう方を支援していると思います。この状況はずっと続くわけではない、いつかは終わるとは思います。いずれ終わるということを希望にしていただきたい。もう一つ、支援をしてもらうからといって、そこは恥じる必要はない。今日もお話したように、お互い様です。助けるときもあれば、助けられるときもあるんだという気持ちを持って、まず命を大事にして、そして一緒に再び日本を元気な社会、良い社会にしていただければと思います。頑張りましょう。

玄侑氏:新型コロナウイルス感染症は収束の日があると思いますが、予測をしないことが続けて起こることは今後、常態化していく気がします。我々は予測して計画を立てるというやり方を良しとしてきたのですが、今後は通用しなくなる。大きな変化を前にして、その時点で現状を正確に踏まえて次の一歩を考えるというのが「なりゆきを生きる」ことだと思っています。いいモデルは日本の五重塔です。五重塔は寺社にあるのが47、観光用も入れると100以上あります。五重塔は地震に対する挑戦です。決して倒れてはいけない。倒れないために五重塔は大体心柱が浮いているわけです。自分のコアな部分を揺らして本体を守っているのです。これまで生きてきた信念をずらしてでも本体を守ることが必要になってくる。「男に二言はない」などと言っていられない時代、「舌の根も乾かないうちに」ということが次々に起こってもおかしくない時代ですので、なりゆきを大事に生きていきたいと思います。