第二部「社会福祉とは」

駒村氏:福祉国家と言われている姿は日本社会が戦争国家を目指してしまった反省として導入した部分があります。戦前から多少福祉的な部分もあったのですが、まあ現代的なものです。この福祉国家が今大きな転換期を迎えているわけですが、現代福祉国家あるいは福祉という概念がちょっと狭すぎる、あるいは私は違和感を抱くようになってきています。仏教では福祉というものをどういうふうに見られているのでしょうか。

玄侑氏: 「福祉」という文字は、両方の字に示偏(しめすへん)が付いていますよね。 これは祭壇を表します。祭壇の上に酒樽をお供えして、何かを祈っているというのが「福」、「祉」というのはお願いした結果、神仏が何かの結果を与えてくれた、それを喜んでいるという姿です。 英語で福祉はウェルフェアとかウェルビーイングという言い方でしょうが、ウェルという判断をしているのは誰なのか、神なのか人なのか分からないですけれども、神様にお願いしてというところに謙虚さがある。

七福神というのがありますね。あれだけ違ったタイプの、インド、中国、日本の三国の代表が宝船に乗って仲良くしている。 仲良くしているということ自体が賞賛に値する。宝船がどこに行くかは問題じゃない。七福神の日本代表は誰かご存じですか。 インドからは大黒さん、弁天さん、毘沙門天ですね。中国から福禄寿、寿老人、布袋和尚が入って、日本代表は恵比寿さんです。

恵比寿さんがどういう人かといいますと、イザナギ(男神)とイザナミ(女神)が最初に子作りしようと思ったときに間違ってイザナミの方から声をかけてしまったので、ちょっと未熟な子ができてしまった。 だから「蛭子(ひるこ)」だと言って、海へ流してしまった。「蛭子」と書いて「えびす」と読み替え、海を守る神になって戻ってきた。 だから日本代表は「普通の子」ではなかった恵比寿さんなのです。ここに神様の御姿をスタンダードに考えるという西洋との大きな違いを感じます。 未熟だった蛭子が日本代表になり、外国の人たちと仲良くしている。それが福祉の到達形ではないかという気がします。

駒村氏: 世界中の福祉国家の一つのスタートになったのは、イギリスの救貧法と言われているものです。イギリスが近代社会になるときに、囲い込み運動などで土地を奪われた農民が失業者になってロンドンに集まっていく。その人たちを集めて強制的に働かせようと。なぜあなたたちは働かないんだ、働くのがスタンダードでしょう、ここに集まると働けますよと。それと引き換えに居住と食を保証しますよというのが現代の福祉のスタンダードになったわけです。

さかのぼっていくと、キリスト教の影響があったかどうかわかりませんけれども、ヨーロッパでは自然発生的に仲間を餓死させない、仲間を守っていくんだという発想があったようです。日本でも、古代の律令国家にはすでに、高齢者や障がいを持った人、親がいない子どもなどハンデのある人に、田んぼを保証しましょう、税金を免除しましょう、場合によってはヘルパーさんもつけましょうというのがルールとしてはあったようなんですね。律令国家ができあがったのとほぼ同じタイミングで仏教が伝来していると思いますが、仏教が福祉のあり方というものを持っていたのではないでしょうか。

玄侑氏: まさにそうだと思います。この国が形を整え始めたころに、仏教が入ってくる。外的なものが入ってこようとするときに、内的に形を整えようとするというのは他の例でもあると思います。 仏教が入ってきたために、それまでほとんど形のなかった神道が形を整えてくる。それと同時に、外国と付き合いができるということは病気がやってくるということです。 稲作が入ってくると結核が入ってくる。仏教がやってきたころは天然痘です。牛由来という説と犬由来という説があります。

仏教が入ってくるとき、受け入れるかどうかで物部氏と蘇我氏が争います。 蘇我さん、そこまで言うんだったら仏像でも作って奉ってみたらと欽明天皇がおっしゃるわけですけれども、奉ってみると、天然痘が広がるわけです。 これは仏像のせいでしょということになって、物部氏は捨てなさいと言う。それで、淀川の河口あたりに仏像を捨てます。すると、物部氏自身が天然痘にかかり、欽明天皇も天然痘にかかってしまいます。 仏像を粗末にしたせいだという話になり、結局、仏教を受け入れようってことになります。天然痘がはやって、マラリアもはやる。 飢饉があり、イナゴが飛ぶという大変な状況でした。 聖武天皇はこういう天変地異が起こるのは天皇自身の不徳のせいだと認識して、困窮した人たちを救うのは国の役目だということで、光明皇后が施薬院や悲田院、療病院を作ったのが日本における福祉の始まりじゃないでしょうか。

駒村氏:天然痘で親を失った人や深刻な病気になった人を助ける施設を作った。それまでは自助しかなかった。自分の生活は自分で守っていけという社会から、共助、あるいは公助とも言われるような姿を社会として組み込んでいったということだと思います。

玄侑氏:モデルになっているものがインドにあります。京都に祇園というところがあります。祇園寺というのが全国にあります。祇園というのは「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)」の省略形です。インドにあった祇樹給孤独園はお金持ちが余っているものを持っていく、困っている人がそこに行くと、もらって帰れる。余ってる人と足りない人がここで交流して交換するという場所です。光明皇后は同じようなことを日本でもやりたいと思ったのでしょうね。

駒村氏:大きな異変があったり疾病が蔓延したときには、社会のあり方というのが大きく変わり、その時には助け合いあるいは公的な支援というのが真正面に出てきて社会の性格を変えるということが過去にあったということですね。

玄侑氏: 今では天然痘のような感染症の原因が細菌とかウイルスだと分かっていますが、当時は原因不明ですから、神仏の祟りか怨霊の仕業だというふうに思われていました。 天然痘の流行を止めるためにどうしようかというときに、すべての命にくまなく光があたるという物語が華厳経として入ってくるのですね。 朝鮮半島の新羅から審祥というお坊さんを招き、聖武天皇が連続で講義を受けました。

第二次世界大戦後、天皇陛下(昭和天皇)の前で、鈴木大拙さん(仏教学者)がお話になったことが、角川書店から『仏教の大意』として出版されていますが、それは主に華厳経の教えです。 華厳経は覇権を競い合う戦の世の中を救うのは華厳の教えしかないということです。聖武天皇もあらゆる国民を救うためには華厳だと言っています。 華厳というのは「雑華厳飾」(ぞうけごんじき)という言葉の略です。 雑な華、「厳」も「飾」も飾るという意味です。要するに、あらゆる華が全部雑だということです。 「雑」というと、反対語として「純」が思い浮かびますが、純と雑があるのではなく、全部雑なのです。

鈴木大拙さんは『華厳の研究』という本を昭和30年に出しています。 その中で、「雑華」を「普通の華」と訳しています。みんな普通じゃないか。 そういう見方です。命がみんなつながっているので、個別に見て、こっちが上だとか下だとか、ヒエラルキーを全く認めないのです。 みんな雑であり、みんな普通であると。そういうお経なのです。

奈良の大仏から出た光に影がなく、どこにでも届く。光というよりむしろ熱のような届き方です。 そういう仏があることを知って、聖武天皇は金銭負担、労働負担は大きいけれど、大仏を作ります。 みんなが苦しんでいるときにそこまでやるのっていう話なんですけど、疫病の原因は分かりませんし、何とかこれで治るんじゃないかと言って、建立するわけです。 華厳という考えに、福祉という気持ちを託したと。日本の福祉にはスタンダードはない、みんな普通なのです。 スタンダードがあって、ハンディキャップのある人を引き上げるのではなく、みんな不完全でしょうという見方だと思います。

駒村氏: 社会福祉、社会保障の政策を考えていると、誰か、何かをスタンダードにして、そこから外れているから助けようという発想がどうしてもあるんですね。 しかし、最近の脳神経の研究を見たり、あるいは現実の発達障がいや精神障がいの状況を見ていると、完全にスタンダードの人間ははたしているんだろうかと。 連続的なグラデーションの中にさまざまな状態の人がいて、私自身だってスタンダードと言えるわけでもないと思うのです。

今のお話をお聞きして思ったのは、やはりスタンダードを決めてしまうと制度から除外されていく、あるいはスタンダードか、そうではないかのラベリングをしなければならなくなると。 働けないハンデがあるとしたら、障がい者雇用ということにすれば仕事が見つかるから、本人が望んでいるかどうかわからないけれども障害者手帳なり障がい者の等級を受けさせちゃったほうが楽なんだよねっていうような話が平気で行われる。 区別をする、ラベリングをするっていうのが、どうしても制度にはある。そこを見直していかないといけない。 困難を抱えていない人はいないと思いますから、これからの我々の社会はお互い様の気持ちで、スタンダードを決めないほうがいいのではないかなと思いました。

玄侑氏: この本の中に、障がいを持っていることを個性だという見方が出てきますね。 教育というのはどうしても定型を目指すというところがあります。 その定型が狭くなって、特にコミュニケーション能力が異様なほど要求される。 パソコンが使いこなせないといけないし、英会話ができないといけないというふうになった。 コミュニケーションが強要されるようになって非常に目立ってきたのは自閉症ではないか。

引きこもりと言っても、我々も引きこもっているでしょう。 引きこもりがいけないということが定型になっていて、コミュニケーションができて引きこもらないということが要求されるために、そうじゃない人たちが非常に目立ってきている。 定型発達って心理学では問題視していますよね。 定型を要望しすぎるのではないかと。 華厳には定型がまったくないのです。松と梅と岩とスズメを比較しようとしても無理です。 ばらばらのものを対等の要素として見ていたら、みんな違ってみんな光が当たっているという世界です。