弱者99%社会

―最後の質問ですが、相変わらず余震が続いていますし、竜巻などの自然災害リスクが顕在化してきています。こういったリスク社会に我々は生きているわけですが、リスク社会においてどのような課題があるのでしょうか。

「リスク社会」という言葉は私たちが生活の利便性を高めた結果、自然災害はもちろんですが、雇用や環境等々のいろいろな危険や不安もまた引き受けざるを得なくなってきてしまった社会ということです。この言葉は東日本大震災でリアリティを増すことになりました。雇用とセーフティネットが弱いという、地域社会そのものの脆弱さに自然災害が重なると、どれだけそのダメージが深まるかを示しました。まさにリスク社会の中で私たちは生きているのだということを実感させたわけです。

リスク社会というのは私たちのほとんどが弱者になる社会だと言っていいのかもしれないと思います。「弱者」という言い方はやや違和感があるかもしれませんが、要するに、何が起きても自分の力だけで対処できる人は本当にごく一部に限られていて、大多数の人たちはそうしたリスクが現実になったときに、自分や自分の家族の力だけではしのげない。そういう意味で潜在的な弱者になっている社会がリスク社会だと思います。

最近、『弱者99%社会』というタイトルの本を編集して、新書として出版しました。弱者99%というのは決して無根拠であるわけではなく、いま個人の純金融資産が1億円超える人たちは1.8%ぐらいと言われています。そうした意味では、99%に近い人たちは必ずしもそれだけの資産を持っていない。先ほど申し上げたように、自分たちの力だけでやっていくためには、やはり1億ぐらいのお金が要るかもしれない。これを考えて逆に言うならば、99%の人たちは潜在的な弱者であるかもしれない。

こうした社会は社会保障や雇用政策、あるいはさらに広く言えば連帯の形を大きく変えていかざるを得ません。つまり、みんなが弱者になる可能性がある社会。ここでは一部の弱者をくくり出して保護する、それ以外の人たちは余裕があるのでその保護を財政的に支えるという形が成り立たなくなっていくわけです。

ほとんどの人は、いつか何かのきっかけで生活が立ち行かなくなるかもしれない。こうした中では、その一部の弱者をくくり出すのではなく、老若男女みんなが何かが起きたときに社会とつながり続ける、そして力を発揮し続けるような条件づくりをどのようにやっていくのかということが非常に大事な課題になってくるわけです。

こうした課題をどう達成するかを考えたとき、みんなが潜在的な弱者になる社会は、新しい連帯をつくっていくという目標を考えたときにたいへん両義的であることに気づかされます。一方では、みんなしんどいわけです。余裕がなくがんばらざるを得ない。そうなってくると、今とりあえず経済的に自立して働けている人たちは、自分たちは今でもこんなにがんばっているのだから、例えば生活保護を受給している人たちを助ける余裕はないし、どうやら話を聞くと、かなりの受給者は働ける条件があるらしいではないか。生活保護に依存しているのではないかと、かなり非寛容になってしまう傾向があります。

他方では、みながリスクに直面しているのだから、これはセーフティネットを充実させることが、皆にとってよいことだという連帯への志向も強化されます。

このような両義性が強まる社会の中で、人々が非寛容になってくる傾向をいかにきちんと連帯の方向に転化していくのかということが問われてくると思います。そのために非常に大事なことは、みんながきちんとお金を出し合い、負担をし合うのだけれども、それが本来の目的で公正に使われ、万が一のときの保障にきちんと結びついている。そのことをみんながはっきり確信できるための政治と行政と社会の信頼度が大事です。

したがって、リスク社会を連帯と安心の社会にしていくために、政治と行政と社会の信頼度をどう高めていくのかがカギです。そのためには分権化も必要でしょうし、例えば民間の社会的企業のようなアクターが連帯を保障する事業に加わっていくことも大切です。あるいは、予算が使われていくプロセスの透明性も大切だと思います。そうした信頼度を高めながら、リスク社会を連帯の社会にしていくことが、私たちがリスク社会を乗り越えていく、しのいでいく唯一の方法ではないかと思います。

―ありがとうございました。