故郷の復興のために
石川 幹子 氏
中央大学人間 総合理工学科教授
―出身地でもある岩沼市における震災復興の中で、先生は震災復興会議の議長を務められていましたが、復興計画に取り組まれた経緯についてのお話を伺えますか。
私は生まれも育ちも岩沼で、大学に入る時に故郷を離れたという生粋の東北人です。今回、3月11日の震災による津波でこういう事態になり、何とかしなければいけないというのは誰でも思うことですが、すぐに駆けつけるにしても、手段もありませんし、交通も通信もうまく機能していませんでした。
たまたま私の実家は、母親が避難所として地域の方を受け入れていたので、80人の方が実家で避難生活を送っているということでした。そのため、私が駆けつけてもあまり役に立たないし、水や食料がなくなるだけですから、他にどういうことで故郷のお役に立てるかと考えました。私は都市計画の仕事をしているものですから、復興計画ならばつくれると思ったのです。
その理由というのは、2008年5月12日に中国の四川省で四川汶川大地震が起こり、その復興計画に私が参加していたからです。この地震で8万5000人ぐらいの方がお亡くなりになりました。地震発生後、中国政府が国際社会に、この地域をどのように復興すべきかというグランドデザインを求め、世界の49カ国から応募があり、10カ国が参加することになりました。日本からは、経緯は不明ですが私がその復興計画に参加することになり、ちょうど東北の震災が起こる直前の3年間、四川の復興を現場で目の当たりにしたわけです。被災直後1カ月に何をしたらいいか。3カ月後に何をしたか。1年あるいは2年ということで、四川に関しては3カ年で大きな復興をほぼ成し遂げたので、そういうノウハウをたまたま熟知していた訳です。国の違いはもちろんありますが、これならば私でもできるということで、最初から復興計画にお役に立ちたいということで行きました。