復興計画はグランドデザインから

―中国での経験を活かされて、岩沼にいち早く入ったとのことですが、復興に向けた取り組みの特徴点についてお話いただけますか。

震災から一ヶ月後の4月12日に市役所に行き、市長さんに復興計画を支援したいと申し上げました。ただ、極めて複雑な問題なので、個人でというのは無理です。四川の時も被災地が広範にわたるので、ペアリング支援と言って特定の市町村を特定の組織なり自治体あるいは学校が支援するという方式をとっています。私はたまたま東京大学にいたものですから、私個人ではなく東京大学として支援したいと考え、ペアリング支援が成立したわけです。

今までの復興計画というのは、法ができ、財源が整い、具体的にできるという見通しが整うまでに半年くらいかかかるわけです。その間、被災地は待ちの姿勢となってしまいます。法がなくても、やらなければいけないことは何か考えなければいけない。この支援の大きな特徴は、法の担保はないが、この地域を将来どのようにするべきか、あるいはどういう復興をするべきかというものをすぐに始めたことです。

岩沼では8月7日にグランドデザインが決定されました。法も整理されていない時に未来の大きなビジョンを考える。これがグランドデザインです。これは、5月から4回にわたり開催された震災復興会議の成果です。行政の委員会ではなく、学識者、地域の農業・産業の代表の方、それから20代、30代など世代ごとの市民の代表の方、そういった方が集まり、理想の長期計画をつくったというのが岩沼の非常に大きな特徴です。

それを踏まえ、長期計画があった上で法定計画がつくられたのが9月です。もちろん議会の承認に基づく計画です。それを踏まえて、詳細な実施計画の段階となりました。これは復興庁が立ち上がってからですから、2012年3月。ですから、実際に復興を動かしていくための性格の異なるビジョンが、1年の間に三つの段階に分かれて策定されました。一番大事なのは被災者の方の目線というか、被災者の方の意見をくみ取る仕組みなので、そのために延々とワークショップ、対話を重ねていきました。これが岩沼の非常に大きな特徴です。

―住民の方の意見を反映させるという特徴をご紹介いただきましたが、住民の方々にも多様な意見があったかと思います。他の地域でも、例えば高台移転なのか原状回復なのかという議論が半分に割れるなどよく聞きます。岩沼市の取り組みの中で、うまくまとめ上げていったポイントはどういったところにあるとお考えでしょうか。

いちばんのポイントは、津波が来た直後、岩沼には六つの集落がありましたが、地域のコミュニティが大変しっかりしていたことです。4月の第1週ぐらいにコミュニティのリーダーの方、そして地域の皆さんが、集団移転をしたいという申し入れを市長さんにしています。しかし、どこに移転するか土地もわからないし、お金だってわからない。どういう仕組みなのかもわからない。それでも市長さんは、二つ返事で「やる」っておっしゃったのです。市長がやるとおっしゃったし、被災者の方も集団移転したい。これでもう基礎ができたわけです。だから揺れない。

その後、揺れるとすれば、行政が誠実でなかったり、いろいろなことがあると思うのですが、岩沼は1カ月たたないうちに方針が決まったので、あとはその方針を実現するために、誰がなにをしたらいいのか、どういう合意形成をしたらいいのか、前に進めていくことが可能となりました。哲学なり基本的な目線が極めて初期の段階で合意されたのがポイントだったと思います。